
こんにちは。オガサワラです。
先日、嫌いなことで物事を語れという増田のエントリーを目にして嫌いなものを語る時の人はキラキラしているよなーと、ある出来事を染々と思い出したので語らせてください。
嫌いが好きを凌駕した事例
僕の間接的な知り合いの女性の話なんですが、彼女は集合住宅に住んでいて隣に住んでる男性にパソコンをハッキングされていると思い込んでいるんですね。
で、相談を受けたことがありパソコンにめちゃくちゃたくさんスクショがあるんですよ。パソコンがおかしな挙動をした時に撮ったなんっつて。
そのスクショ全部見せて貰いましたけど、漏れなくパソコンを使っていたらそういうこともあるでしょうねってレベルのもんで…、例えばマウスに触れてないけどカーソルが少し動いたりねあるじゃないですか…振動とか、マウスの誤動作とか。まあだからといって可能性はゼロなんて否定は出来ないよなーと聞いていたんですけれど、彼女のパソコンね、オフラインなんですよ。
で、オフラインでハッキングされてるって主張するんです。めんどくさいのと怖いので警察への相談を提案したんですが、取り合ってくれないって…。相談済みなんかい!と思いつつも僕には相手がどういう経路でハッキングしているのか分かりません。なんかすみません。と謝りました。
その後も彼女の話は続き「あの変態やろう!いつか警察に突き出してやる!」「犯罪者め!」「キモい!」なんて罵詈雑言の嵐が吹き荒れたのですが、そんな彼女は隣人男性の日々の行動パターンを細かく把握しており、いつ頃から被害にあわれているんですかと聞いたら5年前からと言われました。
隣人の男性のこと語る彼女の目はキラキラと輝いており、怖い…、もう2度と関わらないようにしよう、と心に誓いました。
話は逸れましたが、この時ほど、《嫌い》の持つ凄まじいエネルギーを感じたことはありません。
嫌いはんぱない
プロスペクト理論といものがありまして、人間は、同じ量の得と損があった場合、損の方を大きく評価する特性があるようです。まあこれは厳しい自然界を生き抜いてきた生物的本能の名残なんでしょうね。損得と好き嫌いはなんか似てますよね。
それにしても、好きが原動力になるのは間違いないのですが嫌いの方が行動として反映されやすいのが人間の面白いところです。
分かりやすい例でいうと、何かしらの漫画やアニメだったりにファンとアンチがいたとして、アンチの方が作品を深く読み込んでるなんてことは往々にしてありますしね。
何が言いたいのかというと嫌いのエネルギーはんぱない。