こんばんは。オガサワラです。
今年に入ってから『Charlotte』(シャーロット)を観まして、それがツボで、そのまま『Angel Beats!』(エンジェル ビーツ)も一気見しちゃいまして、その内に記事を書きたいなあと思っていたらもう年の瀬です。今年できることは今年の内にということで本記事を書いてます。
『AngelBeats』は、昔のアニメなので、今更ながらという感じがしないでもないのですが、ネット上の考察記事を一通り読んで、自分なりの解釈も組上がってきたので、アウトプットしておきます。
考察記事なのでネタバレガンガンします。あと、あらすじとかもすっ飛ばすので視聴していない方は注意して下さい。

- 発売日: 2017/07/21
- メディア: Prime Video
- この商品を含むブログを見る
あくまでも個人的な考察なので話半分にどうぞ。
Angel Playerとはなんだったのか

【出典:Angel Beats!】
転生を拒んだ魂が迷い込むガフの部屋、それがAngel Player。
魂を持つ者はPlayerとして扱われ死を迎えると転生に向けて準備が進む。ただし、これには条件があり、生前を受け入れ前に進もうと思えるのかどうかがポイントになる。
Angel PlayerのNPCについて
Angel Player内のNPCはPlayerではないので、魂がなく転生不可。
ここでいう魂の有無は自我または意識のあるなしではなく、魂がないものはAngel Player内のシステムとして作られた哲学的ゾンビみたいな存在。
時間とAngel Player

【出典:Angel Beats!】
奏は音無の心臓を移植されて命を得ている筈なので、音無の方が先に死んでいる筈です。
にも関わらず音無がくるまえから奏はAngel Player内で生活しています。
この点、時系列の矛盾について、これは死んだ瞬間にAngel Playerに転送されてくる訳ではないという考察が一番多いですが、僕もそう思います。
Angel Playerに転送されてくる者達の生きていた年代はバラバラで、そもそもAngel Player自体、実は、かなり遠い未来で作られたものではないかと思うのです。
さらに、Angel Player自体がシステムのほんの一部で、実は転生後の世界も仮想現実だと考えると、中々面白いです。
例えば、遠い未来、我々人類は世界をシミュレーションすることに成功する。
限りなく現実に近い仮想世界。
死を実装した。
次に輪廻転生という概念を取り入れ魂の総量で生物の総量を管理できるようにする。
転生を待つ魂はガフの部屋に保存されるが、転生を拒否する魂も現れることが予想された。
そこでAngel Playerというシステムを実装し、人道的に転生を促すよう設計した、と。
この様に考えることで時系列の矛盾を解消できます。
Angel Playerの制作者は?
Angel Playerは、仮想世界のごくごく一部であり、人道的に転生を促すように組み込まれたシステムであることからも制作者の思想が汲み取れます。
彼あるいは彼女はAngel Playerというシステムの根幹を揺るがす危険については重々想定していた筈です。故に愛という感情を危険視していたのでしょう。
しかし、人道的に転生を促すように組み込まれたシステムであることからも汲み取れるように、Angel Playerの制作者は信じたかったのだと思います。
ここに迷い混んだ彼、彼女等は、迷い葛藤があろうとも、立ち止まることを選んだりはしないと。
ちなみにAngel Player制作者はNPCとしてAngel Playerの中で生き続けるのを選んだわけではなくAngel Playerのテスト個体であり、この世界には魂を持っておらず、本当の意味でのPlayerだったのではないかと思います。故に外の世界で彼が息を引き取ると、いわは彼のアバターだった誰かはNPCになったと。
ちなみにAngel PlayerのNPC化は、いわば強制転生みたいなもので、本人の意思に関係なく魂を操作できるよう緊急用のシステムを組んでおいたと想像できます。
Angel Player内に魂が滞留していくと、最悪の場合、システムが魂の総量を管理できなくなるので。
とSFっぽい考察になりましたが、個人的には、こう考えるのが、一番しっくりします。
まとめ
ここまで持論を展開しておいてなんですが、制作者が意図する部分は、また違うところにあると思います。
『AngelBeats』は、あくまでも人生讃歌です。
つまりSFまたはオカルト的なガジェットや伏線も、かくも人生は素晴らしいと語るための暗喩でしかないという点にはくれぐれも留意したい所ではあります。
考察するのは楽しいですが、あくまでも、個人の解釈なので、答は別にあってもあーだこーだ、いうのが楽しいわけです。
そんなこんなで機会があれば『Charlotte』についてもあーだこーだ考えたいと思うのですが、まあその内に。